リタイアとウルトラマラソンを走る意味
真夏にサイトを立ち上げ、ハロウィン後にエントリ。
2ヶ月前にサイトを立ち上げたのに、めんどくさい虫に触発されたのか全くエントリもしないクソ野郎(´・ω・`) でしたが、この期間にいろいろあったのでまとめたいなぁ、と思います。
特にレースリタイア後の気づきが大きかったので、主にそちらを中心に。
◯霧島ウルトラマラソン100kmのリタイア
「単独 立山トレイル」を成功させ、(変態)マラソンランナー2年生になり、出場した
鹿児島県・霧島市での地元のレース。しっかりと準備をして臨み、意気揚々とスタートをして(朝5時出走なので、ヘッドライトの着用義務あり)
これでもかっっていうぐらい徹底的に打ちのめされました。
サポート車までつけて、補給も完璧な体制を取り、15km地点まで、予定通りのペースで走り、10位前後をウロウロしていていたはずなのに、、
▶︎前半50kmでの累積で1500mを超える高低差
▶︎10月末なのに季節外の暑さ(当日は気温30度)
▶︎トレイルランナーには、慣れないコンクリートのロード
予想外の環境にどんどんペースは遅れ、復帰するために無理なペースになり、メンタルは「苛立ち・慌てふためいたあげく、ふてくされ」、完全に負のループ。
簡単に脚も内蔵も全て限界を迎えて、爪が5枚ほどいなくなった段階の52km地点でのリタイアとなりました。
(とことこ歩くことが精一杯の図)
◯走るとは?
おもしろ半分で走り始めて1年で
「とりあえず、走ってみよう」→「趣味:ランニング」
→「ハーフマラソン」(フルマラソンは経由せず)
→「100km以上のウルトラランナー」+「山岳マラソンのトレイルランナー」
という形に、RPGのように一つ一つの壁(=距離とか、標高差だったり)をクリアすることが楽しすぎて、もっと難しい舞台に立ちたいって、主戦場もあれよあれよと変わってきました。
時間に対する成長度合いが、「等加速度直線運動」のようにぐんぐん伸びて、完全に図に乗っていました。
今回のレースはかなり重要レースで
・ギリシャの36時間で245km走るマラソン、スパルタスロン
・新潟から静岡に行く山岳レース、TAJR(トランスジャパン)
の選考ために設定したサブ10(100kmを10時間)
の目標はかなり遠い結果で、正直かなり凹みました。怪我もしてしまい、走れなくなってしまいました。
そんな時に出会った本「ランニング思考」、の序論の一説
”苦しみ抜いて長い距離を走りつづけると、あるタイミングでとても静かな世界に足を踏み入れることにもなる。もちろん実際には周囲に音はあるし痛みもあるのだけど、それが違う星の出来事であるかのような、静謐な世界に足を踏み入れることにもなる。この上なく心が安らぐ場所で、静かに自分を見つめることができる。修行を重ねた僧侶が瞑想するときに見える法悦の世界はこういうものなのかもしれない。”
今までのレースで感じてきたものを、ウルトラランナーの起業家である著者が綺麗に言葉に表現していた。(走らない人にとっては理解に苦しむと思うのだが、、)
普通の陸上マラソンとは違い、ウルトラマラソンやトレイルマラソンの変態の世界ではよく
「順位を狙わない」「メンタル7割、アジリティ1割、走力2割」「レースを最後まで最幸に楽しんだ者にのみ、結果を出すことができる」
と言われています。
今回のレースの失敗は、最初に結果を狙ったこと。そして環境を受け止めず、意地を張ったこと。
ただこれだけだと思います。
ウルトラマラソンを走ることで感じることができる、周りの人の支えでの長い距離を走れることの環境に強い感謝と幸せ、そしてきつい中で自分を受け止めて初めてできる、「苦しみ」の「心が安らぐ場所」への昇華。
このことを今回のレースで失敗して、その失敗に向き合って本質に気づきました。
ただ、この昇華への難易度が高くて、まるで三角関数のように連続的に苦しみと昇華が繰返えされるわけではなく、時には不連続にやってきたり、外的環境にすごく左右されたり、時には勘違いだったりで、、、まぁこの「昇華の不連続関数」が、ウルトラマラソンの醍醐味でもあるのですがね。
なにはともあれ、しっかりとこのスタンスを理解できるようになって、走力がついてきた時に、最初に描いていた目標の「世界一」に近づけるんじゃないかな?と。
凹んでる間に、すっかり死んでしまった5枚の爪も2枚は復活してきたので、11月の群馬でのトレイルで、また新しい世界を味わうために進む日々。
初エントリの内容をここまで読んでいただきありがとうございました。
これからも社会人ランナーとして、新しい気づきをありのままに発信して、一人でも新しい変態の境地に行くランナーが増えますように。
一本締めといきましょう。
よーおっ。ぱん。
いるま
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